ブータン

|国旗画像 = Flag of Bhutan.svg
|国章リンク = (国章
|標語 = なし
|位置画像 = Bhutan (orthographic projection).svg
|最大都市 = ティンプー
|面積順位 = 128
|面積大きさ = 1 E10
|面積値 = 38,400
|水面積率 = 極僅か
|人口統計年 = 2008
|人口順位 = 162
|人口大きさ = 1 E6
|人口値 = 697,000
|人口密度値 = 18
|GDP統計年元 = 2013
|GDP値元 = 1061億
|GDP統計年MER = 2013
|GDP順位MER = 162
|GDP値MER = 20億
|GDP統計年 = 2013
|GDP順位 = 158
|GDP値 = 47億
|GDP/人 = 6,370
|通貨コード = BTN
|時間帯 = +6
|夏時間 = なし
|国歌名 = 雷龍の王国
|ISO 3166-1 = BT / BTN
|国際電話番号 = 975
|注記 =
}}
ブータン王国(ブータンおうこく、)、通称ブータンは、南アジアの国家。北は中国、東西南はインドと国境を接する。国教仏教ドゥク・カギュ派)。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語ゾンカ語。首都はティンプー

国旗はその模様が複雑で、竜のうろこが細かく描かれている。国花メコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ国獣ターキン国鳥ワタリガラス、国蝶はブータンシボリアゲハ

長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国際連合加盟。翌年に国民総幸福量という功利主義を採用した。

国名

正式名称のラテン文字表記は『CIA WORLD FACT BOOK』によればDruk GyalkhapDruk Yulという略称が使用されることが多い。

チベット語の表記はチベット文字では Dru Ü ツ・ユー、ワイリー拡張方式では 'brug yul、「ドゥク・ユル」(竜の国)と読む。

公式の英語表記はKingdom of Bhutan。通称、Bhutan

日本語の表記はブータン王国。通称、ブータン中国語漢字)では不丹と表記し、と略す。

この国名の起源については様々な説がある。例えば、サンスクリット語で「高地」を意味する「ブーウッタン」説があるが、インドの側からの呼称で、インドからみればブータンは標高の高いところに位置していることによる。ブータンの人々は自国を「ドゥック・ユル」と呼ぶ。これは13世紀以降、仏教のカギュ派に属するドゥック派を国教としてきたので、自分たちをドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派)、自国を「ドゥクパの国」(雷龍の国)と呼んでいるブータン王国教育省教育部 2008 pp. 16-19.

歴史

ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教ドゥク・カギュ派が伝えられ、以後、同地に定着していった。

ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より化身ラマが同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。

第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫ガワン・ナムゲルを同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。

ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。

両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。

ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。

1772年、当時インドのクーチ・ビハール王国に侵出していたブータンはイギリス援軍によって駆逐され、以来イギリスとの関係が始まる。この紛争はパンチェン・ラマの調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人によるドゥアール地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使エデンを派遣して交渉に当たらせた。エデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国インド総督が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは1864年にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが(ドゥアール戦争)、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、1865年にブータンへの補助金(年額五万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(→シンチュラ条約朝日新聞社中央調査会編『朝日東亜年報』1942年、276頁JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、5頁

その後1906年にイギリス人のブータン入国が正式に承認されると、1910年には先のシンチュラ条約(第四条及び第八条)を改正して、補助金を年額十万ルピーに倍加すること、イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと、さらにシッキム王国及びクーチ・ビハール侯国のマハ・ラージャとの抗争はイギリス政府の仲裁に託すことが両国間に締約された(→)。イギリスによるこの外交指導権買収は、英領インド保全のためにその東北方から他国の勢力を排除するのが目的で、当時その対象となっていた国は、ブータンを「チベットの属部」と認識し、度々その宗主権を主張していた清国と、南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていたロシアであったJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、6頁。イギリス政府はプナカ条約締結と同時に北京駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であること、またブータンに対する清国の勢力をイギリスは容認しないことを正式に通知した。イギリスによるブータンの外交権束縛は、イギリスから独立したインドによって引き継がれた。

従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマラージャ(仏法王)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャ(執政王)による二頭体制であった。しかし1885年に内乱が勃発して以来国内が安定しなかったことから、1907年ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュクが世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王となった朝日新聞社中央調査会編『朝日東亜年報』1942年、277頁。次いで1926年にその子息ジグミ・ワンチュクが第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュク1972年に急死すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく第4代国王の座に即いた。2005年に総選挙が実施されると翌年12月に国王は譲位し、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。2008年7月18日には初の成文憲法典が公布され、名実ともに立憲君主国へと移行した。

年表

外部リンク

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Category:内陸国

wikipediaより

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