福島第一原発

|国 =
|所在地 = 979-1392:福島第二原子力発電所3号機にて再循環ポンプ破断が明らかとなり、同機が運転を停止した。この件を東京電力は2月3日まで発表しなかったため、「経済性を優先させ、情報公開の原則を踏みにじった」としてマスコミなどから批判を浴び、本発電所が立地する双葉、大熊両町でも緊急の町議会全員協議会が開催された。この動きは3月31日に第一、第二両発電所の立地4町の各議会に設けられている原発安全対策特別委員会が共同歩調を取るため、連絡協議会を発足した。また、佐藤栄佐久による新体制となったばかりの福島県は原子力対策室を原子力対策課に格上げした「総点検可能か 総延長百九十六キロメートルの燃料棒」。東京電力はこの事故の対策として本発電所に運転技術担当を配置した。
  • 1993年平成5年)2月6日:東京電力として初めて、六ヶ所村の低レベル放射性廃棄物処理センターに向け低レベル放射性廃棄物を搬出することとなり、本発電所の保管分が青栄丸に積み込まれ出港する。
  • 1999年平成11年)4月:排気塔モニタの測定データの一般公表を開始した。
  • 2000年平成12年)1月7日:3号機において実施予定であったMOX燃料の装荷について延期する旨を県知事に報告する。
  • 2001年(平成13年)2月26日:佐藤栄佐久福島県知事(当時)が3号機プルサーマル計画について、当面許可しない旨を表明する。
  • 2002年(平成14年)5月:社報『とうでん』にて原子力部門での共通スローガン「勝ち残り、選ばれるエネルギー、原子力!〜設備利用率86%達成〜(やろう、86)」を策定する。
    • 8月29日:東京電力、原子力安全・保安院が原子力発電所における点検・補修作業の不適切な取り扱いについて公表する。
    • 10月25日:東京電力が1号機の原子炉格納容器漏洩率試験における不正に関する報告書を経済産業省に提出する。また、1号機の1年間の運転停止処分を受ける(福島第一原子力発電所の項も参照)。
  • 2003年(平成15年)4月15日:定期検査時期等も重なり、東京電力の運転する原子力発電所全号機が運転を停止する。
  • 2004年平成16年)6月25日:社内組織再編により原子力・立地本部を設置し、本発電所を含む社内の3原子力発電所(当時)は全て同本部所属となる。
    • 7月1日:本発電所を含む3原子力発電所の組織を改定し、品質・安全監理の責任者として「ユニット所長」を設置する。
  • 2005年(平成17年)2月22日:6号機において定格熱出力一定運転を開始する6号機における定格熱出力一定運転の開始について プレスリリース2005年2月22日 東京電力HP
    • 7月30日:1号機の運転を再開する。
  • 2006年(平成18年)12月5日:1号機における復水器海水出入口温度測定データの改ざんについて報告する。
  • 2007年(平成19年)7月24日:新潟県中越沖地震による柏崎刈羽原発での事故を受け、日本共産党福島県委員会、同県議会議員団、原発の安全性を求める福島県連絡会が連名で東京電力に対して「福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ」を提出した。
  • 2009年(平成21年)9月10日:4号機において定格熱出力一定運転を開始する4号機における定格熱出力一定運転の開始について プレスリリース2009年9月10日 東京電力HP
  • 2010年(平成22年)2月16日:福島県知事は2月定例県議会で、東京電力が福島県に申し入れていた福島第1原発3号機でのプルサーマル計画実施について、条件付で受け入れることを表明した。同知事は、昨年から県エネルギー政策検討会を再開して検討してきたこと、核燃料サイクル推進という国の方針、玄海原発でのプルサーマル発電の開始などに言及、受け入れる考えを述べた しかし、前知事の佐藤栄佐久によれば、県議会でも安全性に関する議論らしい議論は無かったという。http://iwakamiyasumi.com/archives/7682 佐藤栄佐久元福島県知事 緊急インタビュー。
  • 2011年(平成23年)3月11日東北地方太平洋沖地震とその後の大津波で、外部からの電源と、何らかのトラブルにより稼動しなかったとされる非常用ディーゼル発電機を失い、「全交流電源喪失」状態に陥ったことで、原子炉や使用済み核燃料貯蔵プールの冷却水を循環させる機能と非常用炉心冷却装置の機能を完全に喪失した。これにより、地震発生まで稼働中だった1、2、3号機についてはポンプ車などで緊急に燃料棒を冷却する必要が生じ、3号機と4号機の使用済み核燃料貯蔵プールについても注水して冷却する必要が生じた。この注水過程で建屋内での水素爆発や放射性物質の大気中への漏洩が発生し、日本社会や経済と国際社会に甚大な影響を与えた。
  • 2012年(平成24年)4月19日:福島第一原子力発電所で爆発事故を起こした1号機から4号機がこの日の24時に廃止された。事故を起こした4基の廃止に伴い、日本の原子力発電所は、54機から50機に減少した。
  • 2013年(平成25年)11月18日:福島第一原子力発電所1〜4号機での廃炉作業の最初の工程である4号機にある燃料貯蔵プールから燃料の取り出しを開始する。
  • 2013年(平成25年)12月18日:5・6号機の廃炉が正式に決定(コメント)福島第一原子力発電所5号機および6号機の廃炉について 東京電力
  • 2014年(平成26年)1月31日:5・6号機の2基がこの日をもって廃止。第一原子力発電所自体もこの日をもって廃止され、日本の原子力発電所は、50機から48機に減少した。
  • 2014年(平成26年)12月22日:4号機の使用済み燃料プールにあった1,533体全ての燃料を取り出し、共用プール及び6号機使用済み燃料プールへの移送を完了した。
  • 2019年(平成31年)4月15日 : 3号機の燃料取り出しが開始

今後の廃炉作業の予定

  • 2021年度:燃料デブリ取り出しを開始する予定
  • 2023年度:1・2号機の燃料取り出しが開始予定
  • 2041年頃:1〜3号機の溶融燃料の取り出しが終了予定。
  • 2051年頃:福島第一原子力発電所1〜4号機の廃炉・施設の解体が終了予定。

詳細仕様

環境モニタリング

環境モニタリング設備も開所以来変遷を辿ってきたが、1976年の社報においては次のようになっていた。


style="font-size:110%"|環境モニタリング設備
設備
内容
測定対象等
周辺放射能連続監視装置
モニタリング・ポスト:敷地境界付近8か所
モニタリング・ステーション:周辺町3か所
中央操作室監視装置・データ自動処理装置
空間ガンマ線量率:外部被曝監視用
空気中放射性物質の採取
外部被曝積算線量監視装置
熱蛍光線量計をモニタリングポスト等に一定期間(約3か月)放置し、その間の積算線量を算出する
空間ガンマ線による積算線量(外部被曝監視用)
環境試料分析室
フード、天秤、電気炉、原子吸光装置など環境試料前処理用設備一式
|
放射能測定室
低バックガスフロ計測器、機器分析用多重波高分析器(Nalシンチレーション検出器、Ge(L)半導体検出器)など放射能測定装置一式
|
放射能観測車
Nalシンチレーションサーベイメータ、空気中放射性物質採取器、採泥器などのサンプリング器材一式
無線機付 2台
緊急時のサーベイにも使用可
-
  • 東京電力は1978年5月下旬、海底土の定期検査時に218pCi/kgのコバルト60を検出した旨発表し『福島民友』では4段抜きの扱いで報じられているが、作業衣などを洗濯した水から由来するもので、「問題ない微量の数値」としている1978年5月の海底土調査結果リリースについては
  • 1999年4月より排気塔モニタの測定データの一般公表を開始した。この理由として、『とうでん』1999年5月号では「10数年前には外に出されていた時期もあったんだけど、現在では、放射性希ガスを減衰させる設備などさまざまな対策を施した結果、外へは出されていないと言っていい」と解説し、管理目標値は年0.05mSvで実績値はそれより遥かに低いとしている。

批判的な見解

  • 双葉地方原発反対同盟は大気汚染調査を1975年から1977年にかけて実施した。方法は発電所周辺の松葉を集めて放射能を検出し、発電所からの距離との関係を明らかにしようとするもので、分析は名古屋大学教授古川路明(当時)が行った。調査結果から、広範な地域が汚染されているとしたが、福島県は独自調査を実施し、中国核実験による影響で、人に影響を与えるレベルではないと発表したという。
  • 双葉地方原発反対同盟は、1978年〜1979年に本発電所周辺で海洋放射能汚染調査を実施した。本発電所周辺はホッキ貝からコバルト60、マンガン54が検出され、発電所由来のものだと結論したが、福島県は同様に1980年に追跡調査を実施し、ホッキ貝の汚染を否定した。

『技術と人間』編集部は反対同盟に対抗する形で福島県が実施した追跡調査結果を「いつもこの調子」「結論が先に出た調査」と批判した。

燃料調達方法

1、2号機の装荷燃料はGEが調達する契約であったので手当はスムーズであったものの、3号機以降は自前で調達する必要があった。この実務は東京電力では殆ど松永長男が実施し、『東電自分史』の回顧録も後半は殆どその件についての内容である。交渉相手国によって法体系や商習慣も異なるため、契約によっては他電力会社、鉱山会社、電気事業連合会と協力して交渉にあたることが多々あり、別会社や法人を共同で設立するようなこともあった。一口に燃料と言っても、松永は契約面から下記のように分類している。全ての過程が初体験でかつ、日本国内に殆ど前例がないものであった。また、本発電所の着工の情報を入手し、1967年頃からウラン精鉱の売り込みも各国から活発に行われたという。

  • 探鉱開発
  • ウラン精鉱売買
  • 転換・濃縮
  • 使用済燃料輸送
  • 再処理

使用燃料の変遷

本発電所は日本の原子力発電黎明期に建設され、40年に渡って運転され続けたため、使用燃料についても時代により大きな変化を見せ、日本のBWRで使用された殆どのタイプの燃料について使用実績がある他、試験的に新開発燃料を装荷されたこともある。

発電所の運営

人員数

人員数については時期と対象範囲により変化がみられる。

  • 1号機が開設された1971年春の時点では本発電所の従業員は350名、その内訳は事務系100名、発電関係所員と建設関係所員がほぼ120名程度であった。350名の内地元出身者は約70名である。この他建設請負業者関係として約1500名が2号機その他の建設に従事中で、1号機の最盛期には3000名に達したが、これら請負業関係人員の半数が地元からの雇用であった1号機運開の頃の人員数については。当時の所長、今村博も相馬の出身であることを配慮し、火力部から移籍していた
  • これが6号機の建設が大詰めに入っていた1978年春の時点だと発電所職員800名(内地元出身200名)、建設現場6000名(内地元出身2000名)という状況であり、地元出身者にとっては発電所へ働きに行くことで冬季の出稼ぎが不要となったことが一つのメリットであった。職員800名の内400名は若年男性であり、女子事務員にとっては格好の狩場であった
  • 1984年時点の『経営コンサルタント』誌による取材では発電所で勤務する東電社員は910数名とされ、当時の本店勤務数3000名の次に多かった
  • 1994年に地元自治体を対象とした研究で挙げられた数値としては全従業員9,000名、内東京電力関係約900名、日立、東芝等関連企業10社の従業員約4,000名、臨時雇用・環境整備等に従事する地元高齢者約4,000名となっている。
  • 2010年の取材では、6000名近くの従業員が働いているとされていた

研修体制

佐々木史郎(当時原子力管理部副部長)によれば、1979年当時、本発電所に配属された新入社員の研修計画は人事課が立案しており、人事課所属の指導員と他課のベテラン社員により実施されていた。また「運転関係の技術といっても広い範囲にわたる」と前置きし、1978年度を例に次のように説明されている佐々木史郎「運転関係技術員養成の現状」

  1. 新入社員研修:高卒技術系については集合研修0.5か月の後、原子力導入研修(原子炉理論、原子力技術の基礎知識等)、発電導入研修を実施し、3か月の直内研修を実施。本発電所の発電部配属に対しては前記に加え発電要員研修として直内研修6か月を実施し、通算研修期間は1年。
  2. 配転者研修:主に火力部門などからの転入者に実施。原子力導入研修2か月、その後は他部門での経歴に応じ直内研修を実施。主機操作員以上の者にはBTCでの研修を追加する場合もある。
  3. シミュレータによる技能研修:主機操作員以上の新入社員にはBTCの標準訓練コース3か月、補機操作員から主機操作員に移行する者は1978年度より新設の短期基本コースを受講
  4. 技能保持として主機操作員以上は2年に1度BTCにて再訓練、また同じ当直でBTCにて半年に1度ファミリー研修コースを受講
  5. 他、OJTなど

BTCの活用

1971年4月、運開間もなく東京電力を中心とした電力会社、プラントメーカーの出資でBTC(BWR運転訓練センター)が設立され、最初のシミュレータ施設を本発電所の近郊に建設した。モデルは本発電所の3号機中央操作室で塩官廣海「学科教育にCAIシステムを導入」『電気情報』1979年12月号 (No.267) P17、東京電力もこの施設を使用して運転員の養成を行っている90年代の東京電力側からの記事例としては

保修訓練所の設置

1977年より本発電所内に保修訓練所が開設され、順次その規模を拡大しながら東京電力の原子力部門の正社員、下請作業員が保修工事の訓練を実施するための場として活用されていった。後年福島原子力人材開発センターと改称している。

現業技術、技能認定制度

協力企業

協力企業は福島原子力企業協議会という組織を作っている。東京電力は協力企業を収容するため、1982年に請負企業センターという事務所棟群(計画収容人員4,500名)を敷地内に建設したが、葉上太郎によると、関連会社が300社余りと数が多いため、発電所の敷地外のいたるところに松林を開いて駐車場が設けられている。

きずなdeふたば

福島第一原子力発電所事故以前には広報誌『きずなdeふたば』を定期的に発行していた。この広報誌では福島県内の他の東京電力発電所(福島第二、広野)も取り扱っており、毎号関連企業が登場していた広報誌きずなdeふたば>バックナンバー 東京電力HP

安全衛生

安全衛生についても、原子力発電所の特徴である作業員の被曝管理を含めて、進められたが、問題も指摘されている。

主なトラブル

小規模な事故は建造当初から発生している各事故の詳細はニューシア 原子力施設情報公開ライブラリーも参照されたい。

警備体制

1960年代後半から1970年代後半にかけて世界各地で相次いだ極左暴力集団を中心とするハイジャックテロの脅威に直面し、日本の原子力施設でも警備体制の見直しが求められた。そこで、1979年4月より東京電力は本発電所に物的防護システム(Physical Protection System、P.PないしPPシステム)を導入した。当時の原子炉規制法は核物質防護についての規定が明確化されていなかったため、米国連邦規制 (10 CFR Part 73, 55) に基づき設計されたという。

このシステムの目的は重要施設への不法侵入、危険物品の持ち込みを阻止し、妨害行為に基づく放射性物質放出事故や原子燃料物質の盗難を阻止することにあるという。ただし、日本では民間防護要員が銃砲を携帯することは禁じられているため、現実的な目標として治安当局への早期通報と警察の到着までの時間稼ぎ(不法行為阻止)が目指された。

具体的な手段として公表されているのは、発電所内のエリアを重要性に基づき数段階に区分し多重の障壁を設けていること、それぞれの障壁で重要性に応じたレベルの出入管理を実施していることなどである。またその手法は意図的に人為的手段に依存せず機械的、電気的な手段を使用するように設計されているPPシステムの設計思想については「一 核物質防護の概要」

1996年当時の警備体制としては下記が公にされ、職員、見学者が出入の際に自然と目に入っていた多重警備の体制については「二 当所の警備業務の概要」

  1. 正門など敷地内への進入口に警備所を設置し、ここを基地として防護員(警備員)による三交替、二交替での常時警戒
  2. 構内全般の警備については正門警備所の受け持ち範囲とされ、周辺監視柵、センサー、パトロール隊により警備している。
  3. 1〜4号機発電所本館、5、6号機発電所本館周辺地域を周辺防護区域とし、二重柵を設置し出入り管理所を設置。警備員によるチェックの他車両物品に対してもチェック機器による監視を実施。
  4. 周辺防護区域内の各建屋を防護区域と定め、出入の際には登録されたIDカードを提示して防護扉を開けるようになっている1983年の時点でIDカードによる管理が行われており、第二保修課タービン班を取材した『とうでん』の記事でも「許可証をもらい、ゲートに提示する。コンピュータが許可証を読み取ると、自動的に扉が開き、5、6号機の構内に入る。このような経験は初めてだ」と驚いた様子が伺える。

1996年当時で、一日の入構者は6000〜7000人、臨時受付者は300〜500人程度だという。通勤時間帯の渋滞は昭和40年代より続いており、通勤時間帯である午前7時から8時半までの一時間に2600台ほどの入構がある。これらを捌くため北側にも別の門を設けており、正門からの入構は約900台という状況だった。警備所にはこれらを円滑にチェックして中に入れる工夫も求められる。

2台同時に定期検査に入っている際には周辺防護区域への午前8時から10時にかけての入構は車両200台、入域者約3000人である。1〜4号周辺防護区域では、人用の自動扉は13台設置されていた。上記の事情から当然積載部品も点検するが、これも渋滞の一因となるため、定期検査工程の短縮化に伴い、チェックの質を落とさずにスムーズに検査する方法を考案しているという日常の入構車両数、通勤時の問題については「警備員の日常あれこれ」

臨時入構にはいわゆる「偉い人」が突然来所することが含まれており、警備側としては誰に対しても一定のルール下で入構してもらっているため、対応に苦慮することもあるという。警備員の前歴は自衛官、農業、大工等様々だが、町議会議員など地域の顔役になっている者などもいるという。

防護システムを紹介した記事では「我が国の発電所の核物質防護は大変優れていると言えると思う。この堅固な施設は核不拡散を徹底していることを示す証として大きな意義がある」などと述べている。

しかしながら、恩田勝亘によると多くの理系エリートを獲得したことで知られるオウム真理教の信者が1993年頃本発電所に作業員として潜り込み、数多くの作業手順書を外部に持ち出していたことが、地下鉄サリン事件後『週刊朝日』記事で報じられているという。恩田は目的について「テロという視点も外せない」と述べているオウム真理教信者による内部文書の持ち出しについては「原発作業員になりすますオウム信者と連続不審火」

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降は警備が強化される傾向にある。

警察庁は原子力施設の警備強化を検討し、2002年5月、原子力発電所を抱える警察本部に「原子力関連施設警戒隊」を新設し、専従で警備を担任させることを決定し、福島の両原子力発電所も含められた。装備としてはサブマシンガンが与えられ、SATに次ぐ武装レベルとされた。警備は交替制で24時間体制を取る「原発警備隊を新設 警察庁 各地に専従組織」『日本経済新聞』2002年5月15日朝刊34面

東京電力は本発電所を含む各発電所に不審船対策の一環としてレーダーを設置したレーダー設置については下記
「「テロ監視」街の隅々に 空港の列 駅にカメラ・・・窮屈さ感じる時も 911から5年」『朝日新聞』2006年9月11日夕刊社会14面

2010年初頭の時点では、放射線管理区域内への入場に生体認証登録も追加されていた撮影 瀬戸正人「仕事の現場 Megalopolis Patrol (Final) 東京電力 福島第一原子力発電所」『ビジネスアスキーアスキー・メディアワークス 2010年3月 P121

発電所と関係者の生活

  • 鈴木智彦の取材によると、創業初期には下請業者にヤクザと一般の業者の区別など無く、それなりに仲睦まじく付き合っており、「地域全員がグル」のようなものであったという。
  • 1970年代末、原発ジプシーの発表などにより渡り鳥的な労働者が社会的な注目を集めたが、西山のような原発労働に批判的な者からも下請労働者の内容も徐々に移り変わりが見られたことや層による社会的出自の違いが指摘されている。1970年から1975年までの建設工事最盛期には元請は年齢制限もせず、高齢者が多く見られたのに対して、1975年以降は労働者の質の選択が行われ、すすんでB, C区域に入域する20代の若年労働者が評価され始めた。低稼働率を記録した1977年の保修では従来京浜工業地帯に吸収されていた者が自宅から発電所に通勤し、保修作業の中心となっているとされる。
  • 発電所で働く下請作業員が不審なガンなどで死亡したとしても、企業城下町故、遺族が真相を解明しようとする動きは地元の下請企業や近所付き合いの関係を壊す事に繋がるため控えられる傾向があった。発電所で働く作業員が恩田のようなジャーナリストに接触しようとした場合には、特定次第「明日から来なくてええ」などと雇用関係を解消するなどの圧力をかけ続けたため、取材拒否に遭う事もあったと言う「遺族の口を重くさせる地域への配慮」。また、恩田が取材した際には、発電所に働きに行く者の中に、それ以前にはなかった原因不明の体調不良を訴えて死亡した者が何人かおり、遺族は発電所内での作業内容を知る事も出来ず、放射線管理手帳の存在を知らない遺族もいたという。
  • 1977年に本発電所への配属辞令を貰った蓮池透は1回目の赴任をした。期間は3年半に渡っている。その頃は東電社員は大熊、双葉両町に設けられた社員寮に住み、毎朝巡回バスで発電所に通勤していた。当時は職場にロッカーも無く、一日中作業服を着ている生活で、近所の飲み屋にその姿のまま出入りする者もいたが、東電の作業服姿で交通事故を起こした者が出たため1980年代には私服通勤に切り替わっていた。職場は人と専門技術と仕事が待っているため賑やかだったが、寮は人さびしく週末に上京を繰り返す者もいたという。また、周囲と交流する機会も納涼祭が設けられていたが特に親交が深まるような機能は果たせていなかった旨述べられている。一方で地域とのつながりを指摘する証言もある。1988年保修課長として本発電所に赴任した大出厚によると、8月のある日、高瀬川葛尾浪江)の洪水で当時住んでいた自宅(社宅)が巻き込まれ、思い出の品や家財道具一式を失った。この際には、片付けのため地域の住民など多くの人が手を差し伸べてくれ「なんとか生活を続けることができました。こういうときに受けた恩というのはなかなか忘れられないものですね」と述懐している。
  • 東京電力はその社史『東京電力三十年史』において、GEから来た作業員達のための「GE村」に触れている。本国から派遣されてきた社員のために、ゲストハウスや教会が建てられ、GE村と呼ばれた。また1970年代に各原子炉が運転を開始していく中で、GE社はアメリカ本国より補修要員を派遣してきたこともあったが、多くが黒人で、当時のアメリカの被曝限度は日本人より高いことも理由の一つだった。神部次郎によれば、1975年7月より1976年12月まで保健安全センター所長を務めていた際、黒人が作業中に熱射病で口から泡を吹いて運ばれたことがあり、一時は狂乱死するかと思ったほどだったが鎮静剤を打って大熊病院に転送したことがあるという。一方で、GEの極東東京支社に在籍していた菊池洋一によれば、「危険な作業をさせているという例もあったようですが、私が経験した職場ではなるべく日本人に作業をさせようとしていました。外国人労働者に被曝労働をさせていると見られるのを嫌がったようです」と述べている。空港からバスでゲストハウスに送迎した後は毎日発電所との往復のみで、町には出さなかった。菊池は、地元の飲み屋で「危ない作業をしてきた」旨を語られると問題のためと推測している。また、彼らの多くは貧困層ではなく、中には自家用飛行機を所有する富裕層もいたというGE極東日本支社から見た本国の技術者の印象については下記
  • 東京電力正社員の中でも大卒と高卒の間には心理的な距離があり、蓮池は計装グループに配属された際、根性焼きのごとく、高卒で同年の先輩社員にわざと線量の高い場所に連れて行かれ、無駄な被曝をしたという。
  • 双葉地方原発反対同盟は、発電所建設による社会的影響についても調査を実施、非行、犯罪、交通事故の増加の背景に風俗産業やスナックなどの飲食店、サラ金の進出があるとの見方を示した。請負労働は一時的な雇用に支えられている面もあるため、失業保険の降りた日は周辺のパチンコ店は日中から満員であったという。

立地自治体との関係

いずれも、2011年3月の爆発事故前の記述である。爆発事故後、発電所の半径20km以内は立入禁止となり、避難区域の再編後も多くの地域で帰還が困難な状況が続いている。爆発事故の結果、居住していた住民は離散を強いられ、地域の繋がりと言ったコミュニティ面でも壊滅的な打撃を与えている。

メディアの姿勢

1970年代から立地自治体周辺のマスメディアでは些細な出来事でもこまめに発電所の動向が報じられており、『福島民友』記者の阿部輝郎が『新聞研究』1978年7月号に投稿した記事によれば、「この程度なら、別に報道しなくてもいいじゃないか」という意見は社内からも聞かれたという。それにも拘わらず報道を続けている理由として「報道取材の側から言えば「安全だった」ことに安心せず、つねに問題点を見つけ(中略)不感症にならないように注意していかなければならない」と述べている。なお、阿部は同誌を例に報道内容として下記を挙げている。

  • 発電所関連の事実報道
  • 知識解説
  • 発電所と地域開発の問題
  • 「原発を見直す」「エネルギーと生活」「原発立地その後」といった企画連載
  • 専門家を招聘し座談会を実施
  • 現地住民、関係者へのルポタージュ
  • 反対運動、訴訟の動向

反対運動

脚注

注釈

出典

参考文献等

論文
  • PDF、下編共
  • 電力新報、エネルギーフォーラム
  • 電機
  • 電気情報
企業技報
社報
  • 東電社報、とうでん
    • }}
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社史
報告書
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原子力資料情報室
雑誌
県史
  • 「第三章 電力業」
町史
東京電力労働組合
  • (著者は元東京電力労務部長)
書籍
  • (後半本発電所の開発に関する記載がある)
記録映像フィルム(科学映像館からの配信動画(映画フィルムのデジタル化))

関連項目

  • 吉田昌郎:2011年3月の爆発事故当時の所長。

外部リンク

Category:2014年廃止の施設

wikipediaより

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