固定観念(こていかんねん)は、固着観念(こちゃくかんねん)ともいい、ある人が自らの心中に潜在している「主観」「物事について抱いているイメージ」に囚われており、考え方が凝り固まっている状態。状況が違っても考え方を変えず、他者の意見に耳を貸さない頑固な考え・その意識のことhttps://kotobank.jp/word/%E5%9B%BA%E5%AE%9A%E8%A6%B3%E5%BF%B5-502738</ref>。
使う者がかなりいるが、「固定概念」は辞書にもない誤用。そもそも「概念」は客観的事実や辞書的意味を表し、主観を意味する「観念」とは対義的な語である。固定観念は「個人の思い込み」という主観的であり、逆に既成概念は「社会の思い込み」という客観的であるhttps://wagokan.or.jp/cms/wp-content/uploads/be0295051a72a4d9f212d21763fe1ff2.pdf</ref>。
『広辞苑』第3版では、絶えず行動を決定するように支配している観念だが、強迫観念のように病的なものではない。1988年の『大辞林』では、他人の意見や、周囲の状況に応じて変化しない、行動を決めているような観念。
何かの思い込みがあるとき、慣用的に「固定観念にとらわれる」と言い表すことがある。例えば、「鳥は飛ぶものである」という考えは、多くの人が持つ思いこみであるが、固定観念ではない。鳥であっても飛ぶことのない例、たとえば、ペンギンやダチョウを示されると、一般に人は思い込みから脱して、「飛ばない鳥もいる」という考えになる。ペンギンやダチョウの例を出して説明してもなお、色々な理屈を述べたりして、「鳥は飛ぶ」という観念や自己の主張をどうしても変えない場合には、固定観念となっている。
固定観念は人の経験や得てきた知識から形成され、思考の基盤にはなるが自由な発想を制限する。まだ考えるための時間の余裕はあるのに、固定観念の枠にはまってしまうと、固定観念の枠の中で堂々巡りし行き詰まり状態になることがある。偏った情報が蓄積されることで固定観念が形成されることもある。
既成概念では、社会に広まっている概念、考え方となる。「既成概念や固定観念にとらわれない」のように続けて用いられることもある。
固定観念と混同され易いものに、ステレオタイプな考えがある。ステレオタイプは元々、判で押したような考え方や類別を意味し、多くの人が同じものを共有している状態を表す。単純で底が浅く個性に欠けるのを特徴とし、タブロイド思考の一種ともいえる。ステレオタイプが多くの人に受け入れられるのは、物事を単純化し類型化するため、複雑な思考の努力や反省が不要で、流行などに乗って安易に受け入れが可能となるからである。多くの人にとって、吟味作業や反省は負担が大きく、一旦受け入れたステレオタイプを考え直すということが困難となり、固定観念化しやすい。
人は未知なことやよく知らないことについて、実証的な根拠に乏しい思い込み・先入観を持っていることも多い。先入観は一旦持つと改めにくいものであるため、固定観念の様相を帯びるが、これも厳密には別の概念である。
固定観念による堂々巡りを脱して自由に発想するためには、他者と共に考えたり発散的思考法が使われる。そうした方法としてブレインストーミングは多用されており、自分になかった視点、自分が気づいていなかった視点に対する気づきを得て、固定観念から脱却することができる。
ブレインストーミングをする際にも、誰かが支配的となってしまうことを防ぐために発言数の偏りを調整する調整役が必要で、そうしないと固定観念が参加者全員に拡大されていく危険性がある。集団であれ一人であれ固定観念に縛られるものであり、扇風機の改良について意見を集めてから、羽の改良に意見が多かった場合、これが固定観念であり、次回は別の部分の意見を求めるといった方法で、強制的に盲点について考えることができる。
「この物質は酸性」だと常識的に思い込んでいるようでは、新規化合物の開発につながらないということもある。
2014年には日本の政府や文部科学省が、教育のIT化を進めていくことを決定しているが、紙と鉛筆が重要だと教師が固定観念を持っている場合もある。日本では、意思疎通のために英語を使わず、多くの教育者が「英語教育は読んで訳すものだ」という固定観念に縛られており、意思疎通できない英語を教えていると批判され、学習者が英語を楽しく学ぶことができないとも言われる。教育を「教える」「教わる」の固定観念で考えず、「学ぶ」という主体性のある行動から考え直すこともできる。教師が教えているふりをし、生徒が学ぶふりをしているだけでは形式的であり、相互の演技となってしまう。
複数の文化において、それらが相互に異なるとき、特定の文化のなかでは自明的に妥当とされる考え方や観念が、別の文化に所属する人には、特定文化に固有な固定観念に見えることがある。また、実際に、別の文化を持つ社会に赴き、その社会のなかでは当然とされている考え方や価値観やものごとの把握に対し、反証を提示して異議を述べても、容易に相手の考え方や価値観が変化しないことがある。
このような「文化相対的視点での固定観念」は、情報の流通が世界的に広く行われておらず、様々な知識や文化や社会の多様性が知られていなかった時代や地域においては成立していた。しかし、21世紀に至り、他文化や他社会に関する知識や情報が、広く地球上の至る処について知られるようになった状況では適切なものではない。無論、自分の属する文化とは異なる社会や文化に関して無知であり、知ろうとする努力もしない人の場合は、なおこのような、先入観に基づく固定観念を持ち続ける状況はある。
20世紀の半ば、あるいは後半においてさえも、社会科や歴史の教科書で日本について説明して、ちょんまげを結った武士や町人の絵などを掲載し、あたかもそれが現代の日本の風俗であるかのような紹介をしていた国の例があるが、さすがに21世紀となって、そのようなアナクロニズムな文化的な誤解、あるいは固定観念は消えている。
しかし、現代人が勘違いし易いことの例に、過去の様々な社会で信じられ、真理とされてきたことを、現代の知識水準や視点から眺めて、固定観念と見なすことがある。
例えば、多くの古代の文化においては、人々は大地は平面であると信じてきた。大地が球状であるという考えも存在しなかった訳ではないが、日常的な感覚では、大地は平面と見なすのが自然であり、実際にそのように考えられてきた。現代の知識の水準からすれば、古代の人々は、「間違った観念」に固執していたことになる。仮に、大地は球体であると主張する人が、古代において人々に説いても、多くの人々は容易に考えを変えなかったであろうから、大地は平面だという考えは、古代人の固定観念であったように見える。
しかし、これを固定観念と呼ぶのは、固定観念の本来の意味からして間違いである。現代人にしても、地球が球体であるというのは、子供の頃からの知識や、書物の記述や、TV他のメディアの情報や、環境のなかで提供される知識を元に、ある意味でそのような「定見」を持っているのであり、古代人の大地平面観が固定観念だといえば、現代人の持つ世界に関する「定見」もまた固定観念になる。
情報や知識を国家などが作為的に統制し、コントロールして、国民に誤った知識を与えているようなケースは現代でも存在し、そのような国の国民は、他に比較吟味する情報がない為、政府が作為的に押しつけた物事の把握を、そのまま固定観念として保持する例がある。また、政府のコントロール以外にも、文化や宗教や歴史から、多くの人がある事柄を信じ込みたい場合、反証を示されても容易に考えが変化しない固定観念が構成されている場合がある。
知識やものごとの把握方法のコントロールが、政治的目的や文化的な背景から、意図的、あるいは無意識的に幼少期の頃から行われ、長い成長の過程を通じても継続的に行われることがある。このような場合、或るものごとの見方や価値観が、その人の人格や社会的な存在と切り離せないぐらいに密接に絡み合っていることになり、認識の過ちを指摘する情報に触れても、容易に考えや価値観が変化せず、固定観念となっていることがある。
国策として思想教育が行われた例は、中華人民共和国において『洗脳』と称された思想教育などに典型が見出される。
思想教育はどこの国でも行っていることであり西欧諸国も例外ではないが、情報や知識を国家が統制するのとしないのでは、意味が異なる。またアメリカ合衆国においても、“アメリカは世界で最も自由な国である”というのは、文化的な思想教育になっており、固定観念化している。
宗教的信念にも固定観念が含まれている場合がある。アブラハムの宗教(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教等)の教義にも、ヒンドゥー教、仏教にも、また神道にも、そういった要素はいくらか含まれていることがある。ただし宗教の目的は、科学の目的とは異なるものであり、人間の幸福を目的とする体系においては、固定観念は必ずしも悪いばかりではない。つまり良い効果をもたらすことも多い。例えば、実際に人生で理不尽な目に会い、様々なことに確信が持てなくなり、不安感にさいなまれている人にとっては、何らかの安定した観念を持つことが精神衛生上、あるいはその日を生きてゆく上で、極めて大切な役割を果たすことがある、ということは十分に考慮する必要がある。