善光寺

|山号 = 定額山
|宗旨 =
|宗派 = 無宗派無宗派…公式サイト「善光寺は無宗派の寺院ですが、(略)。」
|本尊 = 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏)
|創建年 = 皇極天皇3年(644年)
|開山 =
|開基 = 皇極天皇(勅願)
|中興年 =
|中興 =
|正式名 =
|別称 = 信州善光寺、信濃善光寺
|札所等 = 西国三十三所(番外)
坂東三十三箇所(番外)
秩父三十四箇所(番外)
西山国師遺跡霊場(客番)
|文化財 = 本堂(国宝)
三門、銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか(重要文化財)
|公式HP = http://www.zenkoji.jp/
|公式HP名 = 【信州 善光寺】 公式ウェブサイト
|地図2 =
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善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺勧進出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年未年に、より多くの参拝者が訪れる。

概要

山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。2014年平成26年)現在の「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。

古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済説話として天竺・如是姫(善光寺本尊を鋳写したとされる月蓋長者の娘)病気救済、百済・入水女官救済、皇極天皇地獄救済がある。が挙げられる。

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている重要文化財 善光寺如来縁起絵 文化遺産オンライン、文化庁 2013年11月。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。

また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。

伽藍

本堂

本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。1953年に国宝に指定された。現存する本堂は宝永4年(1707年)の竣工。設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。二階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺きで、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階をめぐらした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。実長は間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、間口に比して奥行の深い、日本の仏堂には特異な平面である。建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を安置する。このほか、外陣に閻魔王像、内陣に地蔵菩薩像と弥勒菩薩像などを安置する善光寺公式サイト。国宝の附(つけたり)指定となっている厨子は「御三卿の間」にあるもので、寄棟造、本瓦形板葺きとする長野市文化財データベース本堂の説明は別途脚注を付した箇所以外は『日本の国宝』85、pp.134 - 137による。

その他の建物

かつては南大門、五重塔、中門・回廊、本堂と一直線に並んだ配置であった『一遍聖絵』。また、長野県立歴史館は、現在より南側に善光寺があったと展示・解説する。
  • 日本忠霊殿・善光寺史料館 - 日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔。
  • 雲上殿
  • 大勧進
  • 大本願
  • 釈迦堂
  • 宝物館
  • ぬれ仏(延命地蔵尊)
  • : 享保7年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。
  • 爪彫如来
  • 御供所 仏に献ずる供物を調理したり、寺僧が集まったりする『善光寺さん』昭和48年3月5日銀河書房発行全289頁中188頁
  • 法然堂 法然が宿泊したと言われ、法然のを安置小林計一郎『善光寺さん』銀河書房発行昭和48年3月5日全289頁中188頁
  • 六字名号碑 融通念仏を血脈に加えた時の石碑小林計一郎「善光寺さん」1973.銀河書房188頁


File:160501 Zenkoji Nagano Japan06s3.jpg|本堂
正面・南側
File:Zenkoji03s3872.jpg|本堂
東側
File:160501 Zenkoji Nagano Japan02n.jpg|仁王門
File:160501 Zenkoji Nagano Japan05s3.jpg|山門(三門)
File:Zenkoji-M7554.jpg|三門楼上にある扁額
(通称、「鳩字の額」)
File:Zenkoji07s3872.jpg|経蔵
File:160501 Zenkoji Nagano Japan08n.jpg|鐘楼
File:Chureiden in Zenkoji temple Nagano Japan.jpg|忠霊殿・善光寺史料館
File:Zenkoji Daikanjin.jpg|大勧進・護摩堂
File:Zenkoji Daihongan.jpg|大本願・本誓殿

文化財

国宝
  • 本堂(附:厨子1基) - 解説は既出。
重要文化財
  • 三門(山門)
  • : 寛延3年(1750年)に完成した。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められた。栩葺き(とちぶき)とはサワラの板材で屋根を葺く方式である。平成の修復を記念して、平成20年4月24日から11月30日まで三門内部の特別公開が行なわれた。内部には、四国八十八箇所の各寺院の本尊の代像が安置されている。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。
  • 経蔵
  • 金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)
  • 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 1幅(大本願所有)
  • 善光寺造営図(大勧進所有)8幅本品は重要文化財指定時点(昭和63年)には巻子装であったが、平成3年(1991年)6月21日文部省告示第84号で員数を「1巻」から「8幅」に変更している。 享禄四年四月(1531年)
  • 源氏物語事書(大勧進所有)
重要美術品
  • 梵鐘 - 寛永9年(1632年)銘
  • 銅造地蔵菩薩坐像(通称:濡仏)享保7年(1722年)銘
史跡(市指定)
  • 善光寺参道(敷石)
  • : 1714年完成。当時の敷石の枚数は7777枚、現在では6千枚強。
建造物(市指定)
  • 石造宝篋印塔
  • : 山門を通り、左手(西)の方角に二基ある。
その他
  • 算額 天保3年(1832)3月 吉田玄魁堂門人田原小野右衛門忠継他5名奉納
  • 算額 天保4年(1833)仲秋 武内担度道門人山下喜総太宣満他4名奉納

行事

年間行事

  • 1月1日 朝拝式(ちょうはいしき) 善光寺の全僧侶により行われる、新年最初の法要。
  • 1月1日〜3日 修正会(しゅしょうえ) 正月三が日の間に行われる、国家平安を祈る儀式。
  • 1月6日 びんずる廻し(びんずるまわし) 妻戸台の周りをびんずる尊者像と参拝者が廻る行事。
  • 1月7日 七草会(ななくさえ) 朝拝式・修正会に御印文加持・御印文頂戴などが組み合わされた法会。
  • 1月7日〜15日 御印文頂戴(ごいんもんちょうだい)善光寺如来の分身といわれる三判の宝印「御印文」を、僧侶が参詣者の頭に押し当てる儀式
  • 1月15日 お焚き上げ(おたきあげ) 正月飾りや書き初め、旧年中のお札や達磨などを読経とともに焚き上げる。
  • 1月25日 法然上人御忌(ほうねんしょうにんぎょき) 浄土宗の宗祖、法然上人の忌日法会。
  • 2月3日 節分会(せつぶんえ)
  • 3月15日 御会式(おえしき) 本尊・善光寺如来が遷座されたことを記念して行われる法会。
  • 春彼岸の入り、中日、明け 彼岸会(ひがんえ)
  • 4月8日 針供養(はりくよう)
  • 5月4日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ)春の法会は日本天台宗宗祖伝教大師最澄の忌日に行われる。
  • 6月30日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 6月と7月の2回執行され、僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
  • 7月13日 開山忌(かいざんき) 善光寺の開山、本田善光の忌日法要。
  • 7月15日 施餓鬼会(せがきえ) 7月と8月の2回執行され、お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
  • 7月31日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 6月と7月の2回執行され、僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
  • 8月15日 施餓鬼会(せがきえ) 7月と8月の2回執行され、お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
  • 8月23日 地蔵盆(じぞうぼん) ぬれ仏、六地蔵、仲見世の延命地蔵など、境内各所の地蔵尊を巡回し、子どもの健全育成を祈願。
  • 秋彼岸の入り、中日、明け 彼岸会
  • 10月5日〜14日 十夜会(じゅうやえ) 10月と11月の2回執行され、普段非公開の「十夜仏」を本尊の前に遷座し、開扉して供養を行う。
  • 10月15日 御会式(おえしき)本尊・善光寺如来が日本に渡ったことを記念し行われる。
  • 11月5日〜14日 十夜会(じゅうやえ) 10月と11月の2回執行され、普段非公開の「十夜仏」を本尊の前に遷座し、開扉して供養を行う。
  • 11月24日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ) 春と秋の2回執行され、秋の法会は中国の天台智者大師智の忌日。
  • 12月1日 お注連はり(おしめはり) 自坊の門に注連縄をはり、正月行事の始まりを告げる。
  • 12月7日〜9日 貴々念仏(とうとうねんぶつ) 一定の期間を定めて念仏を唱える「別時念仏」の法要。
  • 12月10日 御松はやし(おまつはやし) 正月、善光寺本堂正面向拝に飾られる御松を切りに行く儀式御松はやし 善光寺歳時記-鏡善坊堂童子日程 善光寺歳時記-鏡善坊
  • 12月第2申の日 (非公開行事)御越年式(ごえつねんしき) 本尊・善光寺如来の年越しの儀式。
  • 12月21日 (非公開行事)おそなえつき 正月飾り用の餅つき行事。
  • 12月28日 お煤払い(おすすはらい) 年に一度の本堂の大掃除。

開帳

開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があった。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた元禄の善光寺御開帳。明治時代以降から2009年まで「御開帳」と呼ばれるものは、全て居開帳であったが2013年には両国回向院にて「出開帳」が開催された回向院ホーム > 被災地支援の取り組み > 善光寺出開帳両国回向院

正式名は、善光寺前立本尊御開帳。7年目ごとに1度(開帳の年を1年目と数えるため、6年間隔の丑年未年)、秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ。

回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年のが使用された。

期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色ので結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益(りやく)があり、来世の幸せが約束されるとされる。また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏である釈迦如来と来世の仏である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。

File:Zenkou-ji-gokaicho.jpg|開帳時の本堂
(2003年05月)
File:Zenkoji Eko-bashira.jpg|回向柱
(2009年05月)
File:Zenkoji Gokaicho 2015.jpg|回向柱と山門(三門)。
(2015年4月)

御開帳の歴史

居開帳は現在では丑年と未年に開催されているが、古くは一定間隔での開催ではなく、境内堂社の造営や落慶に合わせ寺の都合により開催されていた。
  • 1730年:享保15年旧暦4月10日 - 16日 - 常念仏二万日
  • 1742年:寛保2年旧暦1月29日 - 旧暦3月14日 - 三都開帳終了
  • 1745年:延享2年旧暦3月15日 - 旧暦5月15日 - 本堂修理完成
  • 1759年:宝暦3年旧暦3月15日 - 旧暦4月15日 - 経蔵落慶は旧暦3月14日
  • 1762年:宝暦12年旧暦4月15日 - 旧暦5月14日 - 常念仏三万日
  • 1773年:安永2年旧暦3月25日 - 4月29日 - 常念仏三万五千日
  • 1785年:天明5年旧暦3月15日 - 旧暦4月15日 - 常念仏四万日
  • 1791年:寛政3年旧暦3月10日 - 旧暦4月30日 - 諸堂修復完成/本堂・三門・経歳・仁王門修復
  • 1799年:寛政11年旧暦3月1日 - 旧暦4月30日 - 常念仏三万五千日/回国開帳終了
  • 1804年:文化元年旧暦3月10日 - 旧暦4月29日 - 出開帳終了
  • 1811年:文化8年閏2月25日 - 旧暦4月15日 - 常念仏五万日/出開帳終了
  • 1821年:文政4年旧暦3月1日 - 旧暦4月29日 - 常念仏五万五千日
  • 1832年:天保3年旧暦3月10日 - 旧暦4月29日 - 常念仏六万日/本堂屋根修復落慶
  • 1840年:天保11年旧暦3月10日 - 旧暦4月29日 - 本堂屋根修復
  • 1847年:弘化4年旧暦3月9日 - 旧暦4月29日 - 常念仏六万五千日、旧暦3月24日に大地震で中止。
  • 1865年:元治2年旧暦2月7日 - 旧暦3月8日 - 仁王門落慶開帳(江戸時代最後)
明治以降は、居開帳がほぼ7年に一度行われている(ただし1942年は戦時中のため開帳せず)。
  • 1872年:明治5年旧暦3月1日 - 旧暦4月20日 本堂屋根葺替工事始
  • 1877年:明治10年4/10 - 5/29 - この年以降開帳の日付がグレゴリオ暦準拠のものとなる。
  • 1882年:明治15年4/10 - 5/29 - 以降太平洋戦争前までの御開帳は午と子の年、50日間の開催が慣例となる。
  • 1888年:明治21年4/10 - 5/29
  • 1894年:明治27年4/10 - 5/29
  • 1900年:明治33年4/1 - 5/20
  • 1906年:明治39年4/1 - 5/20
  • 1912年:明治45年4/1 - 5/20
  • 1918年:大正7年4/1 - 5/20
  • 1924年:大正13年4/1 - 5/20
  • 1931年:昭和6年4/1 - 5/20
  • 1936年:昭和11年3/20 - 5/20
  • 1949年:昭和24年4/1 - 5/31 - 雲上殿落慶
  • 1951年:昭和26年4/20 - 5/24 - 善光寺如来渡来千四百年
  • 1955年:昭和30年4/10 - 5/20 - 丑年未年開催が慣例となる。
  • 1961年:昭和36年4/1 - 5/21
  • 1967年:昭和42年4/10 - 5/20
  • 1973年:昭和48年4/8 - 5/20
  • 1979年:昭和54年4/8 - 5/27
  • 1985年:昭和60年4/7 - 5/26
  • 1991年:平成3年4/7 - 5/26
  • 1997年:平成9年4/6 - 5/31
  • 2003年:平成15年4/6 - 5/31 - 同時期に甲府市善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、稲沢市祖父江の善光寺東海別院の四善光寺同時開帳もあり、628万人が訪れた。
  • 2009年:平成21年4/5 - 5/31 - 6年前の四善光寺に加え、岐阜市岐阜善光寺関市関善光寺を加えた史上初の六善光寺同時開帳となり、過去最高の673万人が訪れた。
  • 2013年:平成25年4/27 - 5/19 東日本大震災復幸支縁を目的に両国回向院にて「出開帳」開催
  • 2015年:平成27年4/5 - 5/31 - ほぼ同時期に26寺で、善光寺如来の開帳が行われた(平成21年の「六善光寺」については善光寺と同日程)信州善光寺御開帳奉賛全国善光寺如来同時御開帳 全国善光寺会。参拝券の購入はSuicaによる決済が可能になった。

御印文

1784年(天明4年)、第79世貫主・等順が、浅間山大噴火および 天明の大飢饉における民衆救済のため、「融通念仏血脈譜」奥村隆彦『融通念仏信仰とあの世』岩田書院、2002年 に関するそれまでの面倒な儀式を簡略化して新たに作成、通称「お血脈」として参拝者へ配布したことにはじまる宮島潤子『信濃の聖と木食行者』第2章、第3章(角川書店)、1983年。釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された、融通念仏の継承者を表にしたもので、歴代大勧進貫主が連なる系図。授与された者は最新の弟子として阿弥陀如来と結縁することを意味する。
等順大僧正は人々の心の平安を取り戻すため、全国各地で行われた回国開帳などでお血脈を約180万枚を授与。民衆は善光寺へ『お血脈』を求めて参拝者が集まり、善光寺信仰の全国的普及に大きな役割を果たし、落語『お血脈』(『骨寄せ』)の題材ともなった続日本石仏図典(日本石仏協会)P171北島正元「江戸巨大都市考」P241 (朝日新聞社)1991年御開帳に等順を思う ー浅間山の大噴火と等順ー 麻績村ポータル

歴史

白雉5年(654年)より絶対秘仏とされている善光寺の本尊、「善光寺式阿弥陀三尊」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済聖王(聖明王)を経て、献呈されたか、難波の津に漂着されたものとされる。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられる(一説に和光寺)が、本田善光に拾われ、小山善光寺から信濃の元善光寺に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。創建時期は不明だが、近江国周辺で見られる湖東式軒丸瓦が発掘されている長野県立歴館(2009,p15)

通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、扶桑略記では或記(引用した)として、「秦巨勢大夫」とあり、伊呂波字類抄では「信濃国人若麻續東人」と相違がある長野県立歴館(2009,p66)。また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある長野県立歴史館(2009,p69 早稲田大学・新川教授による)。また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡家隣接寺院、水内郡は金刺舎人)の1つという指摘がある長野県立歴史館(2009,p73 信州大学・牛山教授による)天平勝宝8年(756年玄宗皇帝は楊貴妃の菩提を弔うため日本に使節を送り、信濃の善光寺に自筆の大般若経を奉納させたという伝承が残る。

善光寺縁起は、扶桑略記で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされていった長野県立歴館(2009,p66)院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年(推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている田島公「〈東国の荷前〉(〈東国の調〉)と〈科野屯倉〉-十巻本『伊呂波字類抄』所引〈善光寺古縁起〉の再検討を通じて―」(所収:吉村武彦 編『律令制国家と古代社会』(塙書房、2005年) ISBN 978-4-8273-1196-9))。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており9世紀の物と鑑定されている『長野市の埋蔵文化財第121集 長野遺跡群 元善町遺跡 善光寺門前町跡(2)』 長野市教育委員会編 2008年3月

治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった牛山佳幸「中世武士社会と善光寺信仰 –鎌倉期を中心に-」(所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究2 鎌倉時代の社会と文化』(東京堂出版、1999年) ISBN 978-4-490-20375-2)。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の「とはずがたり」には半年余にわたり市内の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。

鎌倉幕府の崩壊後は新政権側と反対勢力に地元豪族達が中先代の乱観応の擾乱などの戦乱において、南北朝に二分して対立し、大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなどの争いが続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。

特に戦国時代の、善光寺平信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺仏は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は善光寺別当の栗田氏と共に武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、国替えによって現在は法音寺 (米沢市)熊野神社 (南陽市)にあるとされる。

本尊は武田氏織田信長に滅ぼされると、その嫡男・織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とし、1597年慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。この間大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが本尊に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。

江戸時代には、「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった第3展示室内部「ひとともののながれ」解説文 国立歴史民俗博物館東海道を利用して庶民がお伊勢参りする場合にどの程度の費用が必要だったのでしょうか 国土交通省・関東地方整備局

年表

  • 『週刊朝日百科』「日本の国宝」85(朝日新聞社、1998)
  • 長野県立歴史館[編集・発行]『開館15周年春季企画展 善光寺信仰 -流転と遍歴の勧化-』

関連項目

外部リンク

Category:日本の音風景100選

wikipediaより

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