善光寺

|山号 = 定額山
|宗旨 =
|宗派 = 無宗派無宗派…公式サイト「善光寺は無宗派の寺院ですが、(略)。」
|本尊 = 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏
|創建年 = (伝)皇極天皇3年(644年
|開山 =
|開基 = (伝)皇極天皇(勅願
|中興年 =
|中興 =
|正式名 =
|別称 = 信州善光寺、信濃善光寺
|札所等 = 西国三十三所(番外)
坂東三十三箇所(番外)
秩父三十四箇所(番外)
西山国師遺跡霊場(客番)
|文化財 = 本堂(国宝
三門、銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか(重要文化財
|公式HP = http://www.zenkoji.jp/
|公式HP名 = 信州善光寺ホームページ
|地図2 =
}}
}}}}

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。本尊日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来で、絶対秘仏である御本尊 善光寺式阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)善光寺(2019年11月18日閲覧)開帳は前立本尊で行う善光寺御開帳を知る > 御開帳とは善光寺御開帳奉賛会(2019年11月18日閲覧))。

善光寺勧進出開帳などによって、江戸時代末には「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年未年に、より多くの参拝者が訪れる。

概要

山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。2014年平成26年)時点の「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。

古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済説話として天竺・如是姫(善光寺本尊を鋳写したとされる月蓋長者の娘)病気救済、百済・入水女官救済、皇極天皇地獄救済がある。が挙げられる。

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている重要文化財 善光寺如来縁起絵 文化遺産オンライン、文化庁 2013年11月。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。

また、日本百観音西国三十三所坂東三十三箇所秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。

伽藍

本堂

現在の本堂は宝永4年(1707年)竣工。設計は甲良宗賀(幕府棟梁甲良氏3代)が担当した。本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。1953年国宝に指定された。二階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺で、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階を巡らした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、一般的な日本の仏殿と比べて間口に比して奥行が長い。建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を安置する。この他、外陣に閻魔王像、内陣地蔵菩薩像と弥勒菩薩像などを安置する善光寺公式サイト。国宝の附(つけたり)指定となっている厨子は「御三卿の間」にあるもので、寄棟造、本瓦形板葺きとする長野市文化財データベース本堂の説明は別途脚注を付した箇所以外は『日本の国宝』85、pp.134 - 137による。

その他の建物

かつては南大門、五重塔、中門・回廊、本堂と一直線に並んだ配置であった(『一遍聖絵』)。また、長野県立歴史館は、現在より南側に善光寺があったと展示・解説する。
  • 日本忠霊殿・善光寺史料館 - 日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔。
  • 雲上殿
  • 大勧進
  • 大本願
  • 釈迦堂
  • 宝物館
  • ぬれ仏(延命地蔵尊)
  • : 享保7年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。
  • 爪彫如来 親鸞が滞在した際に残した爪彫りの阿弥陀如来と伝えられる爪彫如来-境内のご案内 | 信州善光寺
  • 御供所 仏に献ずる供物を調理したり、寺僧が集まったりする小林計一郎『善光寺さん』銀河書房発行昭和48年3月5日全289頁中188頁
  • 法然堂 法然が宿泊したと言われ、法然のを安置
  • 六字名号碑 融通念仏血脈に加えた時の石碑


File:160501 Zenkoji Nagano Japan06s3.jpg|本堂
正面・南側
File:Zenkoji03s3872.jpg|本堂
東側
File:160501 Zenkoji Nagano Japan02n.jpg|仁王門
File:160501 Zenkoji Nagano Japan05s3.jpg|山門(三門)
File:Zenkoji-M7554.jpg|三門楼上にある扁額
(通称「鳩字の額」)
File:Zenkoji07s3872.jpg|経蔵
File:160501 Zenkoji Nagano Japan08n.jpg|鐘楼
File:Chureiden in Zenkoji temple Nagano Japan.jpg|忠霊殿・善光寺史料館
File:Zenkoji Daikanjin.jpg|大勧進・護摩堂
File:Zenkoji Daihongan.jpg|大本願・本誓殿

文化財

国宝
  • 本堂(附:厨子1基) - 解説は既出。
重要文化財
  • 三門(山門)
  • : 寛延3年(1750年)に完成した。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められた。栩葺き(とちぶき)とはサワラの板材で屋根を葺く方式である。平成の修復を記念して、平成20年4月24日から11月30日まで三門内部の特別公開が行なわれた。内部には、四国八十八箇所の各寺院の本尊の代像が安置されている。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。
  • 経蔵
  • 金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)
  • 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 1幅(大本願所有)
  • 善光寺造営図(大勧進所有)8幅本品は重要文化財指定時点(昭和63年)には巻子装であったが、平成3年(1991年)6月21日文部省告示第84号で員数を「1巻」から「8幅」に変更している。 享禄四年四月(1531年)
  • 源氏物語事書(大勧進所有)
登録有形文化財
  • (2020年度登録予定)鐘楼 - 嘉永6年(1853年)建、大正15年(1926年)改修(官報告示を経て正式登録となる)
  • 三国渡来の秘仏である一光三尊阿弥陀如来像が天竺から百済を経て、欽明天皇13年(552年)に日本へ伝えられたとされている
  • 皇極天皇元年(642年) - 本尊が現在の地に遷座。
  • 皇極天皇3年(644年) - 本堂創建。
  • 白雉5年(654年) - 本尊が秘仏とされる。
  • :以上の縁起平安時代後期になってから『扶桑略記』『伊呂波字類抄』などに示された。なお10世紀中頃の『僧妙達蘇生注記』に「水内郡善光寺」と見え、また園城寺(現在の三井寺)の荘園末寺としての存在で文献には登場する。
  • 永久2年(1114年) - 信濃国善光寺別当の従者らが京都法勝寺四至内で濫行を働く。
  • 治承3年(1179年) - 焼失。
  • 文治3年(1187年) - 源頼朝が信濃国の御家人に再興を命じる。
  • 承元4年(1210年) - 善光寺地頭職であった長沼宗政が園城寺の請により更迭。
  • 嘉禎3年(1237年) - 五重塔完成。
  • 延応元年(1239年) - 鎌倉幕府執権北条泰時小県郡室賀郷を寄進。弟の名越朝時が善光寺に金堂建立。
  • 弘長3年(1263年) - 執権北条時頼が水内郡深田郷を寄進。
  • 文永2年(1265年) - 在地の有力者に任されていた善光寺近辺警護の奉行人制度が廃止。それまでの和田、窪寺、原、諏訪部の4氏が解任され鎌倉幕府が直接統制に乗り出す。
  • 文永5年(1268年) - 須坂豪族井上盛長によって焼き払われ、盛長は誅殺された。
  • 正安3年(1299年) - 鎌倉八幡宮との結合強化が図られた。
  • 応安3年(1369年) - 戦火で焼失。この時、本尊は土中に埋められて難を逃れた。
  • 応永34年(1427年) - 焼失。本尊を横山(現在の城山)に遷座。
  • 応仁3年(1468年) - 善光寺住職の善峰が対馬宗貞国を通じて李氏朝鮮と交渉。
  • 文明9年(1477年) - 焼失。前立本尊が破損(首を残して焼失したため再鋳)。
  • 文明16年(1484年) - 焼失。前立本尊に損傷。
  • 明応4年(1495年) - 北信濃支配勢力者の村上政清高梨政盛、澄頼とが善光寺を巡って争い焼失。高梨氏が本尊を本拠地に持ち去る。
  • 天文24年(1555年) - 武田信玄により、善光寺ごと甲府に移動(武田家滅亡後、本尊は一時、京都方広寺の本尊となる)。
  • 慶長3年(1598年) - 豊臣秀吉により、本尊が善光寺に還る。
  • 寛永19年(1642年) - 本堂焼失。
  • 慶安3年(1650年) - 本堂(仮堂)完成。
  • 寛文6年(1666年) - 本堂完成。
  • 元禄5年(1692年) - 秘仏の本尊を検分する使者が江戸幕府から派遣され実測された。
  • 元禄13年(1700年) - 本堂再建という幕府の特命で、柳沢吉保の甥・慶運が別当、吉保の娘・智善が大本願上人で入山。桜井徳太郎『聖地と他界観』P427(名著出版)1987年『まんが善光寺さん』(善光寺事務局)
  • 宝永4年(1707年) - 慶運により本堂再建、現在に至る。この造営が創建以来12回目と伝えられている。
  • 寛延3年(1750年) - 香雲により山門完成。
  • 宝暦9年(1759年) - 経蔵完成。
  • 天明4年(1784年)2月 - 等順が天明の浅間山大噴火の被災者救援活動に尽力『信濃毎日新聞』2015年8月6日35面記事融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに簡略化して作成して授与、善光寺に戻り天明の大飢饉における民衆救済のため善光寺の貯蔵米を全て蔵出しして施す。
  • 天明4年(1784年)7月 - 善光寺本堂にて浅間山大噴火の追善大法要を執行『朝日ビジュアルシリーズ 仏教新発見「善光寺」』朝日新聞社、2007年信濃毎日新聞』2018年9月16日26面「鎌原観音堂に立つ善光寺大勧進住職・等順の碑 群馬県嬬恋村 浅間山噴火救済に尽力」
  • 天明5年(1785年) - 大開帳法要、念仏堂において回向。本堂における御開帳の始まり。
  • 寛政10年(1798年) - 4年にあたる全国回国開帳から等順が帰着。宮島潤子『信濃の聖と木食行者』第2章、第3章(角川書店)、1983年
  • 弘化4年(1847年)5月8日 - 善光寺地震により被害を受け善光寺本堂に残る地震の痕、仁王門など焼失。本堂、山門、経蔵は焼失を免れる。
  • 元治元年(1864年) - 仁王門再建。
  • 昭和21年(1946年)5月15日 - 大勧進と大本願の二住職制導入。
  • 昭和24年(1949年)4月20日 - 雲上殿落慶。
  • 昭和28年(1953年) - 本堂が国宝に指定。
  • 昭和35年(1960年) - 本堂で約1000年ぶりに瑠璃壇の法義公開。
  • 昭和40年(1965年) - 山門と経蔵が重要文化財に指定。
  • 昭和54年(1979年) - 火災により奥書院などが焼失。
* 出典公式サイト「善光寺について」、信州大学工学部情報工学科基礎研究室 [「善光寺の歴史」を参照。
  • 平成10年(1998年) - 冬季オリンピックでは、開会式に善光寺の鐘楼の鐘の合図で始まり、続いてパラリンピックも開催された。五輪開催中、ドイツ選手団の選手村として利用された。
  • 平成10年(2002年) - 当時の田中康夫県知事の発案で2002年に行ったのが始まり、毎年4月下旬から5月上旬のゴールデンウィークに行われる、長野駅から善光寺までの街角を花で彩るイベント。
  • 平成16年(2004年) - 長野オリンピックのメモリアルイベントとして2003年に行われた「善光寺ゆめ常夜灯」を元に、翌2004年から始まったイベント。例年2月上旬から中旬にかけて行われる。
  • 平成19年(2007年)- 文化庁が推進する「ふるさと文化財の森」事業の一環として、将来の建て替えを想定した建築資材育成目的で、「善光寺の森」植林を実施
  • 平成20年(2008年)- チベット騒乱を受けて、善光寺は同じ仏教徒としての反対の意味とそれに伴う参拝客への危害が及ぶなどの混乱回避を理由に、当初予定していた北京オリンピック聖火リレーの出発式会場に善光寺境内の不使用を長野市に求めたNHK。2008年4月18日には、善光寺は出発式会場から辞退を表明した 上、聖火リレーの時間に合わせてチベット騒乱の犠牲者(中国人およびチベット人双方の犠牲者)への追悼法要を実施した。同年11月、出発式会場辞退への感謝の印として、ダライ・ラマ14世より釈迦像が贈られた。この像は、翌2009年3月から、忠霊殿で一般公開されている。)
  • 令和2年(2020年)- 善光寺大勧進が、栢木寛照副住職を導師とした僧侶17人による2019新型コロナウイルスSARS-CoV-2)沈静法要を、天明の大飢饉や浅間山大噴火で苦しむ民衆に手を差しのべた等順大僧正の命日である3月25日に合わせて実施信濃毎日新聞2020年3月26日毎日新聞2020年3月26日読売新聞2020年3月26日

資料館

善光寺大勧進宝物館

善光寺に関する史料や宝物が三千点以上あり、季節により展示替えをして、常時150点程度を展示している「長野県ミュージアムガイド」p.26

展示室は1号館と2号館に別けられ、天台宗開創の地である天台山を描いた「天台山図」や「南無阿弥陀仏」と書かれた歴代住職の書、文殊菩薩や観音菩薩の像、奈良時代の善光寺の古瓦、土佐派や狩野派などの仏画、江戸時代の善光寺縁起絵などを展示している。特に「五鈷杵」や「源氏物語事書」は国の重要文化財となっている。また聖武天皇をはじめ各時代の天皇や、高僧、公卿、善光寺を信仰した武将など120人余りの筆跡を張り込んだ屏風「古筆大手鑑」や、武田信玄、上杉謙信の位牌などもある。

善光寺大本願宝物館

宝物殿では歴代皇室の御物や、浄土宗の宝物、仏像、書画など、大本願に伝わる資料や宝物を展示している「長野県ミュージアムガイド」p.27

第1展示室では、276玉を2連につなげた大念珠、鎌倉時代の善光寺の模型、阿弥陀聖衆來迎図や、木造聖徳太子像、木造伐折羅大将像、木造将軍地蔵騎馬像などを展示し、皇室関係では明治天皇屋台祖父天皇の礼服を展示している。第2展示室では、明治維新の折に廃仏毀釈から善光寺並びに大本願を守り抜いた第117世・伏見宮誓圓上人をはじめ、歴代上人の紹介や所縁の品々を展示、本誓殿から奥書院への渡り廊下の天井には、大本願中庭に植えられた植物を描いた「四季草花図」がある。また2007年に明照殿の新築工事の際に出土した、善光寺創建当時のものと推定される軒丸瓦も展示している。

善光寺にまつわる事柄

慣用語

  • 「遠くとも一度は詣れ善光寺」
  • 「牛に引かれて善光寺参り」 - 長野県小諸市にある布引観音を発祥地とする伝説が有名だが、市内仏導寺付近の戦国時代末の実話とも伝えられる。
  • 「堪忍信濃の善光寺」 おそれ入谷の鬼子母神などと同様、「堪忍しなさい」に掛けた言葉遊び。
  • 胴上げ」の発祥は長野市善光寺とする説がある。善光寺において、12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を夜を徹して祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」で、仕切り役を胴上げする習慣がある。この行事は江戸時代初期には記録があり、少なくともその頃から胴上げが成されていたことは確かである善光寺鏡善坊の行事解説。「ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる」と書かれている。

善光寺町

現在の長野市は、善光寺の門前町を起源として発展した都市で、古くから長野盆地を「善光寺平」とも称していた。

元来、善光寺参道付近から現在の信州大学教育学部付近にかけての緩傾斜地が長野と呼ばれていたらしい。中世末には水内郡長野村という村名が現れ、善光寺境内から門前町も含め、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する区域を領域としていた。長野村は1601年慶長6年)に周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村とともに、徳川家康寺領寄進による善光寺領(1000)とされた。

善光寺門前の参道北国街道のルートともされ、門前町は同時に宿場町としての役割も兼ねた都市として発展し、善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれるようになった。しかし、検地帳上の公的な村名は長野村であり、「善光寺町」とは同村内の町場を総称する地名であった。その一方で長野村内だけでなく、同村に隣接する松代藩領または幕府領である妻科村(現・長野市大字南長野)、権堂村(現・長野市大字鶴賀の一部)のうちで町場化した区域も含めて「善光寺町」と呼ぶこともあった。

善光寺町は、北国街道のルートとされた善光寺南側参道を中心に形成された門前町・宿場町であり、町年寄の支配下にあった八町およびその枝町と、大勧進および大本願の支配下にあった両御所前の2町、さらに善光寺本堂南側堂庭から成り立っていた。八町とその枝町、および両御所前に属していた町は次の通りである。

さらに、隣接する松代藩および幕府領の各村のうち町場化した次の区域も善光寺町の一部とされた。

前述の通り、善光寺町(善光寺宿)とは門前町・宿場町を構成する各町の総称であり、検地帳上の公的な村名は長野村(または妻科村、権堂村)であった。それは明治維新後の水内郡長野村あるいは妻科村権堂村を経て現在の長野市につながっている。言い換えると、「善光寺町」とは本来「長野村の一部」を総称する地名であり、「長野」の旧称が「善光寺」であったわけではない。

善光寺町内の各町は、明治以降に改称されたり(桜小路→桜枝町、天神宮町→長門町、堂庭→元善町、長野村後町→東後町、妻科村後町→西後町など)、新たに起立したりしたもの(旭町県町南県町など)を含めて、1878年(明治11年)の郡区町村編制法による上水内郡長野町または同郡妻科村1881年{明治14年}に南長野町)、鶴賀村1885年{明治18年}に鶴賀町)内の通称地名として、さらに1889年(明治22年)の町村制施行による上水内郡長野町1897年{明治30年}に長野市)の大字長野、大字南長野、大字鶴賀内の通称地名として現在も使用されている。

善光寺を舞台にした作品

スポーツ・芸能

アクセス

長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。

拝観について

  • 9-16時 本堂内陣・戒壇めぐり・経蔵・史料館共通500円

出典・脚注

参考文献

  • 週刊朝日百科』「日本の国宝」85(朝日新聞社、1998)
  • 長野県立歴史館[編集・発行]『開館15周年春季企画展 善光寺信仰 -流転と遍歴の勧化-』2009年
  • : 平成21年度春季企画展図録 善光寺信仰-流転と遍歴の勧化-長野県立歴史館HOME ≫ 刊行物のご案内 ≫ 企画展図録(2019年11月18日閲覧)
  • 牛山佳幸『善光寺の歴史と信仰』法藏館、2016年
  • 長野県博物館協議会『長野県ミュージアムガイド』 2017年

関連項目

外部リンク

Category:武田信玄

wikipediaより

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